No.34

カヌー選手ライバルの飲み物に禁止薬物混入

なんと卑怯な。


加害者は被害者の憧れの存在で、プライベートでも懇意にしていたというではないか。
事実を知った時の衝撃と切なさは幾何のものだったか。
これまで人生の多くの時間をかけてひたむきに努力してきたのに、突然身に覚えのない嫌疑をかけられ、間近に迫る東京五輪出場も危ぶまれ、選手生命を絶たれてもおかしくない事態だ。
スポーツ選手として、いや人生そのものにも絶望を感じたかもしれない。
被害者だけでなく日本のスポーツ業界全体に対しても大きな打撃を与えた。


きっと加害者はこんなに大きな事になるとは想像していなかったのだろう。
自分がしたことの影響がどのくらいのものになるか、考えもしなかったと思う。
ただ自分が五輪の選手に選ばれることだけに奔走したに違いない。


先日読んだ西日本新聞に本人が記した謝罪文が掲載されていた。
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~前文省略~
すでにJADAの聴聞会でご説明したとおり、全面的に私の責任に違いないことをお話ししています。私に実力がないのにも関わらず、努力することを怠り、アスリートとして、また社会人としてあるまじき行為をした事について深く反省し、小松選手を始めとする全てのカヌー関係者、応援して下さった皆様、ファンの皆様を裏切ってしまったことについて、深くお詫び申し上げます。

2018年1月11日発行:西日本新聞夕刊より
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私だったら、どうしただろう。


私自身の事、私に関わる人たち、これまでの私の人生と今後の私の人生、
それらのことと「相手」を天秤にかけたなら、恐らくバランスせず私の方に傾くだろう。
「私のしたことです」と名乗り出ることは難しいのではないか。



人は間違いを犯す。悪いとわかっていても、やってしまうことがある。
それを行動に移す時の葛藤は、過ちを認め謝罪する覚悟を決める時の呵責ほどは大きくない。



黙っていることもできた。
黙っていればバレなかったかもしれない。
知らん顔してやり過ごして人知れず良心の呵責と戦うということで、黙っていることを正当化できたかもしれない。
でもそうはしなかった。

自分の人生や家族を大切に想うのと同じように、
相手の人生も等しく尊いと感じられたのではないか。



謝罪しても、やってしまったことと傷つけてしまったことを無かったことにすることはできない。
しかし、やり直すチャンスまで絶たれた訳ではない。
更生することを否定するなら私たちは間違う事ができない。
「決して許されることではない」と言う人もあるが、
それは加害者にはどうにもできないことだ。
罪を認め謝罪し償いをする。
加害者にできるのはここまでしかない。
この時、一番事件を悔いているのは恐らく加害者だろう。
それでも許されるのか許されないのかは、加害者以外の人たちの判断に委ねられる。



どうか社会が悔い改めようとする人を見守る事ができる世の中でありますように。
そして、まずは私自身がそうであれますように。