私の箱物語

あっち側とこっち側

少し前のことになるが、
埼玉県立盲学校に通う高等部専攻科の全盲の女子生徒が、
通学途中にJR川越駅改札前コンコースで何者かに脚を蹴られる被害に遭い、
三週間のけがを負う、という事件があった。
事件当初は被害者女性に同情的で、日本のこれからを憂うような記事を目にしたが、
数日後には加害者男性に同調する書き込みがTwitterで賑わっていた。
「そんな混雑する時間に通学しなくても・・・」
「つまづいた人に謝ったのか?!」
「朝は急いでいるからイライラしてしまうかも」などなど。


そのツイートを読んだ時に「そうかもな」と思ってしまった。
私も同じように思ってしまうかもしれない。


もの凄い罪悪感。
なんて心の狭いわたし。
思いやりのカケラもないやん。


その後、加害者の男性が逮捕され、その方には知的障害があることが明らかになる。


この一連の経緯を経て、なるほどなぁと思った。
事件当初の議論の出発点は「障害者」と「健常者」。
そうすると弱者と強者の暗黙の関係が成り立ち、
弱者は労わるべきだという当然感と、
強者の都合が感情的に議論されてしまう。
もしも、双方が障害者だったら?
もしも、双方が健常者だったら?
つまづいたのが白杖じゃなくて傘だったら?
どうなのか??
最初からそう考えていたとしたら、どんな議論になったのだろう。


今年7月に起こった岩手県矢巾町の中学二年生の、いじめによる自殺事件。
第三者として出来事を考える時、
大抵は自分に都合の良い立場に立って思考する。
それは、いわゆる‘被害者’の立場であることが多い。
保護者会に出席した保護者のコメントは、
自分の子供が被害者になる想定で語られる。
傍観者まで入れればいじめられる人数より、
いじめる人数の方が圧倒的に多いのに。
それを踏まえれば自分の子供が加害者になる可能性の方が高くなるのに。


もしも、自分の子供がいじめる側だったとしたら?
もしも、自分が担任だったとしたら?
どんな違った考えや想いが感じられるだろう。


物事の解決策が見つけられるのは、
互いが今とは違う立場に立って思考し始める時だと思う。
それによって自分のすべき事が明らかになり、
大事な人を守るための問題解決に協力できるんだと思う。

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