私の箱物語

些細な、大きなこと

佐世保の女子高生が同級生を鈍器のようなもので殴り、首を絞めて殺害。
「人を殺してみたかった」

20歳の女性が、生後三ヶ月の乳児の首を絞めるなどして殺害。
「苦しむ様子が見たかった」

近頃起こった事件。

人がこんな感情を持ってしまうのは何でなんだろう。

色んな本を読み漁っていると、
大抵着地は「幼少期に問題がある」と書かれている。
「小さい頃に十分な愛情を注がれなかったから」と。


そうかなぁ?と疑問が生まれる。
そうかもしれないけど、
どの時代に生きた人も、それほど十分に愛情や関心を注がれて生きてきたのか?と。
戦前戦後なんて特に皆が生きることに精一杯で、
人のことなんて考えることが難しかったこの時代の中でも、
多くの人は普通?に育っているじゃないかと。


悶々と考えて気付いたことがある。
それは、
「してあげたいけど、してあげられなかった」と、
「してあげられるけど、してあげなかった」の違いではないか。
時代背景は無関係で、あるのは関わる人の心の持ち方の違いだけ。

結果としての行動は同じでも、
この二つの心の持ち方の違いは、相手にとても大きな影響を与える。
なぜなら人は、相手の行動や言葉の後ろに隠された本心を感じ取ることができるから。
それは子供であっても。

前者の場合、
裕福ではなくても限られた時間であっても、
そこに存在する自分を想ってくれる気持ちは、
子供たちの心を安心させていたに違いない。

後者の場合、
どんなにもっともらしい言い訳を聞かされたとしても、
最大の関心の相手である親から、
自分はどんなに愛しても愛されることはないし、疎まれているとすら感じてしまう。
1人では生きていくこともできず疑問をぶつけることもできず、
その不具合のある環境に甘んじて過ごすしかないという出来事は、
心を狂わせるほどの傷となって深く刻まれたのではないのか。




箱セミナーをやっていて毎回気付かされることがある。
どんなにこじれた関係も、修復はできないと思える関係も、
最初はそうじゃなかったはずだと。

人はいつも誰かのことを想っているし、困っている人がいれば、
自分にできることはないかと考える。
どうやって喜ばそうかと企んだりもする。

でも、豊かな時代に育ってきた私たちは、
そんなことを思う時、つい大きなことを考えてしまう。
高価なプレゼントとか豪華な食事とかより遠くへの旅行とか。

それは相手を喜ばせたいと思う反面、
よそとの比較とか自分のプライドによるものがほとんどだったりする。
「大きな計画」にはお金も時間もかかり、
時には我慢を強いられることもある。
そうこうするうちに消耗して疲れて、相手を想うこと自体が面倒で億劫になってくる。
自分の無力さや不甲斐なさが苦しくなり、
相手と関わりを持つことを難しいものにしていく。




そんな「大きな計画」が必要な時もあるのだろうが、
自分が‘愛する人から愛されている’と、ただ感じられることは、
どんなものにも代えがたく、人が最も欲するものの1つであるはずだ。

自分の囚われを捨てれば、
もっと日常的に頻繁に相手に何かをすることができる。


それは休日を一緒に過ごすことかもしれないし、
手をつないで歩くことかもしれない。

ただ、笑顔で「いってらっしゃい」と言うだけのことかもしれない。
たったそれだけのことかもしれないんだ。

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