
相手は気付かないと思ってやっていること
何が関係性を悪くしているのか。
私の箱物語
「あなた、結婚もしてないし子供も育てた経験もないのに、
人間関係の問題なんてわかる訳ないでしょ。
その立場にならんと、その人の気持ちはわからんよ。」
ほぅ。
なるほどね。
言ってくれるやん。
じゃ何か?
あなたは結婚して子供もいるから、
人間関係の問題は全ておわかりになるとでも?!
子を持つ母親の気持ちは全部お見通しとでも?!
その立場にならないと解らないって言うなら、
シングルマザーの気持ちは解りませんよね?
結婚しても子供のいない人の気持ちはどうですか?
その立場にならんと解らんって言うなら、
誰の気持ちもわからんやないかい!!
だから、人には‘思いやり’って機能があるんや!
わからんから、でも分かりたいと願うから、
その機能を使って経験の差異を埋める努力をするんや!!
だいたいあんたが解った気になっとるのは、
相手の気持ちじゃなくて、
それを経験した時の自分の気持ちやろ!!
ってね、腹立ったのね。
すごーく腹が立ったから、よく考えてみた。
想像してみた。
経験したことないこと、思い描いてみた。
手足を失った人の気持ち、
原発事故で住む場所を奪われた人の気持ち。
わからなかった。
想像を超える不自由さや故郷への郷愁。
どんなに思い描いても、届いていない気がする。
手を失ってみないと、帰る家をなくしてみないと、
やっぱりわからない。
悲しかった。
悲し過ぎる。
立場や境遇が違って相手の気持ちが解らないから、
人との関係において‘ヒズミ’が生まれる。
問題が発生する。
妻と夫の間で。上司と部下の間で。国と国の間で。
でも相手の経験や立場全てを体験することなんてできない。
もし体験できたとしても、
わかるのはそれを経験した自分の気持ち。
自分がそう感じたから相手もそうだろうと。
結局、相手の気持ちを理解してる訳じゃない。
相手が解って欲しいと思っているのは、
自分が経験した痛みや苦しみや不運なんだろう。
どんなに大変だったか、
どれほど辛かったか、悲しい思いをしたか。
幸せな気持ちを解ってもらうのに、
そんなに苦労した記憶はない。
自分が幸せだから相手が解ってくれたかなんて、
むしろ気にならないのだろう。
しかし苦しみや痛みの感じ方は、個人的で多種多様。
想像することも共有することも難しい。
人の苦しみなんてどんなに想像したって余りある。
でも
やっぱり
‘思いやり’なんだろうなぁ。
「人を人として見るのは‘思いやり’の心。」
箱セミナーの冒頭に出てくる一節。
‘思いやり’。
あんまり簡単な言葉で、使い古された単語だから、
その言葉の示すものも矮小化されてしまっているが、
本来はもっと深遠な思考や行動を促している。
すべての人がこの‘思いやり’機能を最大限に発揮し、
相手の痛みを知ろうとした時、
世の中から争いがなくなるんだろうなぁ。